昭和五一年10月01日 田中家霊祭



 不行き届きながらただいま、あの霊祭を奉仕させて頂きました。今朝から、朝のご理解の中に、付け焼刃の信心では取れやすい、人から誘われてのしょうことなしの信心は、付け焼刃の信心じゃと、言う様なご理解を頂いて、しかも今日のご理解は、その誘われてと言うのじゃなくて、誘うてということで、信心を頂いて、信心の有り難い事が、このくらいに分からしてもろうて、なら有り難い、例えば今日こんな霊祭がございますので、一時間早めに、ここの修行生の方達の研修をさしてもらいました。
 ほいで、中で一人銘々が発表しますなかに、早川というここ二十日ぐらいですかね、修行に来ております方が居りますが、今日の発表の中に、本当にあんたそん素晴らしい信心を頂くね、というて度々発表んとき、そう真剣なんですね。頂き方が。それでまあいうなら、二十日あまりの間に、今日発表しております事が、こういう有り難い信心を、もしこしどうして早う知らなかっただろうか、と残念に思います、ちゅうことを開口一番に言うんです。
 今日の御霊様がね、それと同じ意味の事を頂くんですね、本当に助かるとか助けられるとか言うけれども、本当に助けられると言う事ね、しかも今日の私御霊様に本当に感謝せにゃならん、また田中さんのそうしたあの信心に、まあ神様も喜んで下さるだろう、御霊も感謝されただろうけども、別な御霊が今日ね、感謝しておると言う事ですよ。
 私はもうこれいつも、お取次ぎさせて頂いて、その、お取次ぎの内容というものが、あのこう繋がっておるのに驚くんですけれども、今日そうして研修を終わらせて頂いとる所に、あの福岡から日吉さんちゅて、もう滅多に参って来ませんけども、まあ時々しか参って来ませんけれど、おかげだけはよう頂く人がおるんです。
 それがあの春の頃でしたでしょう根、あの二日市におります、妹さんの娘さん、一人娘さんで、医者はもう不治の病だとこう言っておるのですけれども、そのとにかくその痛みがひどくて大変苦しむので、あの日吉さんがお届けをなさっておられたんです。それがもう、おかげを頂いてから、その痛みが止まってしまった。けれどもその病気そのものが、治らないということを苦にしてから、先月自殺をされたちゅうんです。
 もう、今日は先生どういうもんですか、その夢の御霊の事を思うてから、とにかくなんか駆け足するような思いで、ここに参って来たちゅう訳です。ほうそげなこつですか、今日今から私は、少し早いけれども、立たせて貰ってお風呂入って、今日御霊のお祭りがあるから、しかしまあほんとにあの、御霊の助かりたいもさることながら、一辺でもこうしてご縁を頂いておればね、天地の親神様がどうにかして救いたい、なら今日のご理解を朝から御理解頂くと、あの誘うのじゃなくて、誘わにゃ居られないような、働きがあって居るわけです。
 丁度それを前後してからでしたけども、熊谷さんの所に、大変まぁ財産家だったそうですけれども、そのご主人がその、ああいうギヤンブル好きというですか、もうそれで財産を無くしてしまわれやせんかと危惧される様なまあ状態だそうです。それでとにかく熊谷さんのお話しを聞いて、そしてあの嫁さんに姑親の方がね、あの熊谷さんの所に話を聞きに行けと言われたので、聞きに来られた、そんならいまからその月次祭のお供えば持って行かんならんけん、今から一緒にあのお参りさせて貰おうと言うてお参りされた。
 そう言うその事だったんですがね、その人の前に子供連れで一人帰っておったご婦人があるんです。この人はあの久留米から、佐田さんのお導き、佐田さんじゃないあれは、古、なんじゃったかね、古田さんのお導きでね、佐藤さんていう人がこの頃毎日参って来る。この人はまぁ不思議な病気ですね、とにかく人と話をすると段々段々怖くなって来る恐怖症です。
 それがおかげを頂いてこの頃から、まぁ一人で参ってこれるようになり、子供連れで参って来るようになりましたんですが、この人のそのご主人が、その競馬狂なんです。そいであの最近は自分の病気もさることながら、主人のそれが治るように、自分はなんかちゅうたら、自分はパチンコ狂、その嫁さんの方は、けど嫁さんの方はその理屈がついとる、私はこういう病気じゃから紛らかすために、パチンコをやるという訳です。
 だから自分のパチンコは止めようとせずに、その主人の競馬の方だけは止めて欲しいと言うわけなんですよね。そしてこの頃から四、五日前に参ってきてとりました、一緒に連れて来る子供がね、実はもう子供の病気でもですね、もう本当恥ずかしいごとあるですけれども、というてお届けするのに、その普通なら寝小便というわけですけれどもね、この子は寝小便、寝うんこもうだからもう毎朝、毎朝もう困まるというわけです。だからこげなこつでも、お願いしてよかでしょうかと、いうから私がね出らんどんするならどうするねて、私が言いましたのです。
 そしたらそれがもうそれこそ響いたらしいですね。もし是がうんこが出らん、小便が出らんというなら、畳の上にでんよか布団の上にでん、出さえさえすれば、と思うじゃろうと思うた。その晩からおかげ頂いてから、ここ五日間になるとにもう一回も粗相がない。だからね本当に自分の心の上にね、心に分かるとこが分かると、そう言うシャープなおかげが頂かれる神様なんだから、んなら主人のそのまあ競馬狂もです、あんたのならパチンコ好きもですね、あんたは自分を中心にした考え、自分はこんな病気があるから紛らかす為にしよる、主人は主人にもどういう都合のあってその競馬をしよるか分からない。
 だからそこんにきを一つ分かる、分かるとこが分かると子供の事のそんと同じように、おかげが頂ける道だよというて、そのお話しをした話をして、自分もそこでその方と会っているわけです。実は家の主人がそういうそんな、こちらはマージャン狂なんです、のでお参り来た所が実は先生、私の方の娘は中学三年生になるけども、それこそ毎日寝小便で困る、繋がっているですね、その願わんなん事とか、その御霊の事やらなにか、ただ丁度ここの霊祭を仕える為に一時間早く立ち上がらせて頂こうという三十分間の間にそれだけの事が続いておるんです。
 だからここに本当に御霊様が助かられる、という言うなら一つの儀式がここに行われようとしておる時にですね、言うならその一辺でもここに縁を頂いておった、自殺した御霊の事の為に、日吉さんがもう矢も立てもたまらん、駆け足しするごた気持ちで、そのその事をお届けに来た。そら今日はあの天地の親神様が、言うならば人間でも誘われたり誘ったりして、あのお導きがでけたり信心がでけるように、御霊様たちも同じ事だと、特になら自殺した御霊なんかというのは、助かりようがない程しなんだと。もう特別のお徳にお縋りをするより外にしかたがない。
 それにこの儀式のですね、いうならば合わせて頂けたと言う事は、なら今日の御霊様が、誘うて一緒にあの、お救い下さる事がでけるような感じなんです。今日私は今日の霊祭の事を神様にお願いさせて貰いましたら素晴らしく、大体これを磨いたら切れるだろうと思うまぁ刀ですね、ところがその手入れがでけていないもんだから、あの折角の名刀も台無し、と言った様な感じの刀を頂くんです。そしてご理解にですね、霊祭というのは特に式年、式年というのはどんなになら、名刀であっても手入れをしなかったら、研がなかったら同じ、所謂なまくらと同じ事になってしまう。
 この霊祭というのは御霊がそういう、磨くことを感じたり、手入れをすることのきっかけを作ってやるのが、この式年祭だという意味のことを今日は頂きました。だから見よってご覧なさい、こういう真心込めた霊祭があるとね、後は実にシャープなおかげになってくるですよ。いろんな事が、切れ味が良く成って来るわけなんです。いわゆる不安の御霊が、安心の心を頂くわけです。
 そして先ほど早川さんじゃ無いけれども、本当にこういう有り難い信心をどうしてもっと早く分からなかっただろうかと、言って居るような、状態に今日のお祭りを受けて、そういう実感を持って、今日二柱の御霊様がおかげを受けられたような、まあこれは私の感じなんです。ほんとにあの遺族のものの真心、そして天地の親神様への、一つの交流とでも申しますかね。
 どんなに御霊が、ならまたは遺族が、御霊様だけを一生懸命拝んだからというて、御霊が助かるのではない、生きても死んでも、天と地はわが住家と思えと仰る、死に際にもお願いをせよ、死んだからというて、神の世話にならんわけにはいくまいが、というのが、天地金乃神様んなんですから。天地金乃神様のお許しを頂いて、なら今日あれだけ、いろいろなあのおご馳走が取り揃えられたりお供えがしてありますけれども、神様のお許しを頂かなければ、頂けんのが御霊です。これは人間私共でも同じですよ。
 いっちょあれば食べようか、これば飲もうというても、ならさあ胃の悪い人がですね、ならいくら、前に百味の御喰があっても、それが許されなければ、頂けないというのは、現世の於いても同じ事。天地の親神様のお許しを頂いて、御霊の位も一段と進み、御霊様の、天地の親神様のおかげを頂いて、御霊様が、なら百味の御喰のおかげも頂かれることになられる、と言う様な訳でありますがね。
 今日の御霊様は、今朝のご理解をそのままに、誘い誘われてのね、あなたが方から誘われて、お参りしたところが、もう今度御霊様自身が誘うて、もう助かりようのない御霊を、何というでしょうかね、誘うて助かる道を、手立てを作ってやんなさる事が出来るような、感じの御霊様のお祭りでしたね。本当に不行き届きでしたけれども、まあそういう内容のお祭りを、今日は奉仕させて頂いたわけで御座います。